コンプレックス、正しさなんてどこにもない

公募をきっかけに書いた、コンプレックスにまつわる私の考えです。

 

 

 


古い年から新しい年へと移り変わるとき、多くの人は過去の自分を顧みて今の自分を見つめ直す。私もそのうちのひとりである。私は学生服を着て過ごしていた頃のこと、自分自身と奮闘し正しい答えのようなものを探して毎日を生きていた時のことを思い出して懐かしく感じていた。


この頃はもっぱら「正しい生き方」があるとすればそれは何なんだろうと考えていた。

良いか悪いかで評価されることの多かった思春期、生き方にも正解がある気がして、どういう自分でいることが正解なのか悩んだ。結局、誰もが認める“良い子”が正解だと思った私は、友達みんなに優しくしたし、目立たないよう服装にも気を使ったし、恋人にはうんと尽くした。勉強を頑張ったし、門限もきちんと守るので、先生からは期待され、両親にとっては自慢の娘であった。気付いたら本当に良い子になってしまった私は、自分は優等生でいなければならないと思っていたし、そうでないと今まで通りみんなに好いてもらえないと考えるようになった。自分がどうしたいかよりも、自分は他人にどう思われるかが大切になっていった。だけどなんだかやっぱり私はそんな自分が好きでなかったし、どうしても不機嫌だった。

憎らしい。

だんだんそんな黒い感情に支配されることが多くなっていった。幸せそうな友達の表情を見るたびに、どうして私よりも幸福そうなのか納得がいかなかった。自分は人に好かれるためにたくさん努力をしているのに。私の方が正しい生き方のはずなのに。
成績が思ったように伸びなくなって、両親の期待が重荷に感じるようになり、恋人が私のもとを去って行ったころ、私は自分という殻から抜け出したくてたまらなくなった。良い子でいることに疲れてしまった。変わりたくてたまらなかった。みんなも私と同じくらい不幸になればいいのにというどろっとした気持ちでいっぱいだった。


私は2年前の冬の終わり、逃げるようにして東京にやってきた。

それから現在に至るわけだが、今はだれのことも憎らしいなんて思わないし、今の私は変わりたいなんて思わない。私はたまたま東京で、そのままの私を好きだと言ってくれる人たちと遭遇することが出来た。潜ったプールの中から出たときに吸う酸素のように彼らは私の中に入ってきて、トーストに塗るバターのようにじんわりと私を癒してくれた。彼らはどんな私でも許してくれるし、どんな私さえも好きと言ってくれる。だから私は好きな服を着て、好きな歌を歌って、好きな本を読めるようになった。好きな時に好きなだけ。夢中になった。そして気付いたら自分のことが好きになっていた。好きなことをしていただけなのに。
どうやら東京は私に「正しい生き方」なんてないことを教えてくれたらしい。ありもしない正解をただ求めて生きていたあの頃の私はもういなくなっていた。


人はそんなに強くないから、少しでも自分を傷つけないためにすぐ正しさを求めてしまうのだと思う。だから人は正解という型に当てはまっていない自分を煩わしく感じるのではないか。そんな自分を嫌いになってしまうのではないか。私は何が正解で、何が間違いなのかは分からないし、今後もその線引きは実線となることなんでないだろうけど、間違えながら、悲しみながら、感じながら、自分らしく生きていきたいと思う。それでいいと思うし、それで十分だと思う。そうしているうちにどんなあなたも愛してくれるかけがえのない人たちに出会えると思うから。
これから先の未来は東京の路線図よりもきっと複雑で、何が待ち受けているか分からない。不安も恐れもあるけれど私はこれからを全力で駆け抜けていくつもりだ。そしてその道中、もし昔の私を見つけたら、すぐに駆け寄って抱きしめてあげたい。そして伝えたい。

「そのままのあなたが好きよ。」と。

あの頃のあたしが本当に欲しかった言葉を。
誰かの正解を求めてではなく、自分自身を生きられるように。

 

 

 

izumi

始まり

 

はじめまして、izumiです。

 

 

人に好かれたくて、嫌われたくなくて、

でもどうやってもうまくいかない。

そんな全ての女子に捧げるブログを

ここからひっそりはじめたいと思います。

 

どうしたらもっと可愛くなれるだろうか。

何を着たらいいだろうか。

彼を私でいっぱいにする方法は。

どこに行けば素敵になれるだろうか。

何を食べたら満足するだろうか。

そう考える私は我儘なのだろうか。

一緒に考えて行けたら、と。

 

 

 

どんな夜も貴方と明かしたい

izumi